成績が良く、学級委員的な役回りをすることが何かと多かった幼少期。
今になって、私の幼少期を母と振り返っても、「いわゆる『手がかからない良い子』の類いだったかもね…」などと話すのです。

 

でも。

先日帰省した時に、母から見せられた私の作文。たぶん、小1の頃の母の日に書いたものなのだけど、

おかあさんは、おこる時すごくこわいから、もうすこしやさしくして下さい。
せんたくは、このごろやっていないでのんびりしているから、やったほうがいいとおもいます。
ごはんのしたくも、下しゅくしている人につくってあげたり、わたしたちにもつくってあげたりしていそがしいですね。
こんどからもずっとながいきして下さい。

 

…いや、ちょっと待て。これはひどい。我ながら本当にひどい!

これを見た後、家族でゲラゲラ笑いながらも、「ごめん!本当にごめん!」と母に謝罪をしたのは言うまでもないのですが、この文面見た限り、「良い子」のカケラも無いし、私たち母娘の「思い出補正」も大概だなぁと。

大人になってからの今の私が、色々と頭を働かせてみると、「子供が母の日に書く作文」のイメージは、「おかあさん、ありがとう!」で締めるのが定石なのでは?とも思うので、この、

「えっ?何?親にそんな忖度なんて要る?」

みたいな文章を見て、「あんた、面白いこと言ってるわー!」と昔の自分に喝采を浴びせつつも、今の自分が昔の自分をちょっと信じられなくなったりして。

なぜ「ありがとう」の一言が言えないのか。その言葉を言えるように教わっていた気がするけど、教えたはずの親に使わないってどういうことだ。こういう時こそ使うんだろうに…。

やれ「洗濯してない」ってダメ出しするとか、指でスッとテーブルをなでながら「あら、あなた、ちょっとゴミがありますわよ!」とか言ってる姑かっ!どんだけ上から目線なんだ!

そもそも「良い子」という定義は何だろう…。親の言うことを素直に聞いていることが、果たして「良い子」なのか。これって、親にとっては「叱らなくて済む」というだけで、ただ「親にとって都合が良い子」なだけでは?

外で起きた出来事を家族に報告したり、その時の気持ちを話す方ではなかったので、(小さい頃は、外で起きた出来事や問題を、誰かと共有するという考えを元々持っていなくて、そういうことは自分の中で処理するものだと思っていたので、「今日○○があって…」とか、家族に報告したり相談する意味が分からなかった)作文が、自分の気持ちを表すハケ口になっていたのかしら?

などなど、様々な思いが過ぎりました。

 

この作文を書いていた当時(今から35年程前)、実家の向かいにあった祖母宅では下宿屋を営んでおり、そこには、ビーバップハイスクールから飛び出てきたようなビジュアルをした、短ラン&ボンタンを着た高校生のお兄さん達が数名住んでいました。

母は、私たちを育てながら下宿屋を切り盛りしていたのですが、朝晩2食+昼弁当を毎回作り、親元から離れて暮らすビーバップな彼らを母親代わりとして面倒を見たり、たまにやんちゃなことをしてしまう彼らを叱ったり…と、それはもう忙しい日々。

私も、たまーに手伝いをした記憶がうっすらあるのですが、とにかくビーバップなお兄さんたちが怖かった思い出しかない(苦笑)

それを母がやっていたのは、今の私よりも若い頃の話。私には絶対できない…。

「大人になったら分かる」という言葉は、大人がすべて正義みたいな言い回しをして子供をマウンティングしているようで、あまり好きではないし、今、私が「母親」という立場ではないから、そういう意味では「分かってない」ことが多いのだけど、とは言え、自分は到底できることではないので、頭が上がりません。

なのに、娘が書いた作文がコレってどうよ。よくブチ切れなかったなぁ、母よ。

確かに母はこわかったのだけど、こういう作文や感想文、絵、習字などの創作系で怒られた記憶はないので、表現に対しては寛容だったのだと思います。(これは「思い出補正」してないはず…)

当然と言っちゃあ当然だけど、子供の頃の記憶って本当にあいまいなもの。特に私は昔のことを覚えている方ではないので、分かりやすい「肩書き」や「結果」「事実」だけを見て、都合の良いように自分で「良い子」補正を勝手にかけていたんじゃないか…という気がしてきました。

あとで家族に聞いてみると、

「あんた、作文は、結構手厳しいことも何でも正直に書いてたよ」という証言もあり、忖度なしに思ったことをズバズバ言える「正直さを持っていた」という意味では「良い子」だったのかもしれません。

 

奇しくも、年明け最初のブログで、今年の目標に

「大したことない」と、つい蔑ろにしてしまいがちな気持ちや出来事に改めて着目すること
その気持ちや出来事を、素直に自分の表現として昇華させること

と書いていたのですが、今まで、「子供というのはこういうもの」「大人というのはこういうもの」という見方をしている部分が多かったんじゃないか、フィルターに通しすぎ、オブラートにくるみすぎなことが多かったんじゃないか、と感じています。

自分の書道の表現でも今問われている部分ですが、いかに生身の自分を出せるか、自分に正直でいられるか?というテーマに対して、良いヒントをくれたような気がしています。昔の自分、ありがとう。

 

「思い出補正」といえば、「昔は良かった」的なことを言って、思い出を美化してるようで、実は過去にとらわれて未来を憂いているだけで、結局はただの現状に対する不満を述べている…というイメージもあるけれど。

思い出のどこにフォーカスするかが重要で、「昔は良かった」とか、逆に「アレが嫌だった」いうところだけに注目するのではなく、今と昔は当然違うけど、過去の経験を糧にして、自分の人生をより豊かにする方法を考えることで、気分が良くなったり、自己評価を上げたりすることが出来るんじゃないかなぁと。

自分自身を成長させるためなら、「過去の思い出と上手く付き合う」ためのツールとして「思い出補正」を使っても良いのではないかと思っています。